〔約4500文字|読了の目安:9分〕
〈この記事は鹿野氏を偲ぶため、鹿野氏の文体を模倣しています〉
サイエンスライターの鹿野司が2022年に亡くなった。その後、『SFマガジン』で連載されていた科学エッセイ「サはサイエンスのサ」の完全版が2024年に刊行された(全648ページ。ワオ!)。
『サはサイエンスのサ[完全版]』は膨大な内容だから、斜め読みした部分も多いんだけど、一応、全部目を通した。その上で、思うことがある。
この中で鹿野氏の友人が、鹿野氏は「右にも左にも体制にも反体制にも与せず」(p. 645)と書いている。
これは俺もその通りだと思う。でも、鹿野氏が何にも与しなかったかというとそうではない。彼は科学を信奉し、科学に与し、科学の危険性を軽視していたと思う。
また、本人があとがきに、科学=権威だと思ってる人が多くて話しづらい、だから自分は権威的にならないようにしている、と書いている(p. 625)。友人も「間違った理解であってもそのことに苦しんでいる人達への優しい眼差しが生じていた」(p. 645)と書いている。
これについては残念ながらそうとはいえない。彼にも傲慢な点は見られた。
鹿野氏の科学信奉
鹿野氏の科学信奉とは、「世の中は科学技術によって良くなって行っている」という考えに基づき、科学技術に起因する問題を過小評価することだ。
地球温暖化を軽視
例えば地球温暖化を何度も軽視している(p. 176)。気温が上がっていることは認めつつ、その将来の予測値が信用できないと書いている。
予測値が不正確だとしたら、予測値よりも温度が上がるかもしれないってことだ。そうだったらとっくに手遅れなのだから、予防原則として温暖化対策はしなくてはならない。
その予防原則にも言及してるんだけど(p. 182)、なんと、核兵器開発競争も予防原則から起きたから、予防原則は良くないなんて書いてある。核兵器では大量に人が死ぬけど、温暖化対策で基本的に人は死なない。まったく違うものを同列に扱ってるんだよね。
もし予防原則を一切なくしたら、新型ウイルスが出現したときに感染対策もできなくなる。予防原則が必要かどうかは、メリットとデメリットを比較して個別に判断すべきことだ。
2026年の夏の異常な暑さ、温暖化が関係している疑いの強い2026年8月26日にネパールで起きた土石流(1496人死亡、6000人以上行方不明)。鹿野氏が健在だったら、これらを見ても「温暖化は大した問題ではない」と言っただろうか。
環境問題に反発
地球温暖化に関連して、環境問題にも否定的な面を見せている(p. 180)。一度「環境のためにこれを使っては駄目だ」とされたものは、それが誤りであるとわかっても使えないままになる、てなことを書いている。うん、それは良くないね。
しかしエコバッグを批判する理屈は無茶苦茶だ。
山のようにおしゃれなエコバッグを資産して、各家庭がそれを何個もため込み、中には高級ブランドのエコバッグとかも出てきたりして、一体どれだけエネルギー資源をそこにつぎ込んでいるのだろう(p. 180)
多くの家庭がエコバッグをため込んでいるって、何を根拠に言ってるんだろう。高級ブランドのエコバッグがあるとして、それを持ってる人の割合はどれくらいなのか? ごくわずかだろう。
このように事実に基づかない勝手な前提を作る詭弁を俺は「勝手な前提」と呼んでいる。こんな屁理屈を書いてしまうことから、鹿野氏は環境問題に対していい印象を持っていなかったことがわかる。それは「科学は素晴らしいものだ → 科学発展の副産物である環境問題は大した問題ではない」と思い込みたかったからなんだろう。
原発を楽観視
東北地方太平洋沖地震の6日後に書いたという「ほうしゃのうこわいよね」(p. 460)という記事がある。このとき福島第一原発の30キロ圏まで屋内待機の指示が出ていて、外に出るときはマスクしたり肌は出さないとか指示されてたんだけど、
オレは断言しよう。こんなのまったく気にすることないよ。(p. 461)
と書いている。
水素爆発からまだ5日目だ。今後放射線がどうなるのか予想がつかないと思うんだけど、断定しちゃっていいのかなあ。AIに聞いたら「それを断定するのは、かなり難しい」という答えだった。
まあ、オレは専門家ではないので、鹿野氏とAIとどちらが信頼できるのかはわからないけどね。
その後は、低線量の被爆を必要以上に恐れる人が多いっていう愚痴が続く。まあこれはそうなのかもしれない。
面白いのが使用済み核燃料の話だ。
リサイクルを考えたり、最終処分場とかでは何万年安全にすべきとか、非現実的に厳しい仮定をすればそれは大変だけど、今の文明社会が維持できている状態なら、廃棄物はたいした手間無く敷地内の地下室とかに仕舞っておける。(p. 469)
地層に埋めるより、数万年の間、地下室で管理する方が楽だと言っている。
その数万年の間、国家が崩壊したり、戦争が起きたり、地震・津波が起きたり、テロに攻撃されたりということがあり得るんだけど、大丈夫なんだろうか。
漢方薬を否定
漢方薬にエビデンスががあるのはごく一部だと書いている(pp. 443-446)。これはそうなのだろうが、だからといって他の漢方薬が効かないと決まったわけではない。なのに鹿野氏は、
漢方薬は一般的な理解としては、ゆっくりとマイルドに効く、長い間飲み続けることで体質を改善するというものだと思うけど、それはつまり、薬が効いているか効いていないかわからないってことだ。その長い期間、漢方薬を一切飲まなくても、結果はまったく同じかもしれない。(p. 446)
これは「効くかもしれないし、効かないかもしれない」と言ってるわけで、本来何の意味もない言葉だ。でも「効かないかもしれない」とだけ書くと読者は「効かないのか」と思ってしまう。
一部の漢方薬にエビデンスがあるという事実はサイエンスライターとして抑えるんだけど、読者に「効果がない」と印象づける方向に誘導しているんだよね。これははっきり言って、ずるい書き方だ。
『オールザットウルトラ科学』(1990年)で漢方薬に言及したときは、
患者の心得としては、西洋医学と東洋医学は相補的なものと考えるのが一番いいんだろうね。
と書いていたんだけど。どうも後年、科学信奉が強まり、漢方や鍼灸などを否定する考えになったらしい。人は歳を取ると思考が硬直化しちゃうのかしら。悲しいわ。
それに関連して、鹿野氏がブログで「サプリなんか効かない」と書いたことがあった。もう記事が消えてるからうろ覚えなんだけど、読者が「私は軟骨サプリを摂ったら膝の痛みが消えたんですが、軟骨サプリが効かないというエビデンスはあるんですか?」と質問した。
それに対する鹿野氏の回答は、「たまたま自分の痛みが消えると、すべての人に効果があると思い込んじゃうよね」というずれたものだった。
読者はそれに対し「効かないというエビデンスがあるかどうかを聞きたかったのですが……。ブログの趣旨とはずれていましたね」と引き下がった。
質問の意図を取り違えている鹿野氏よりも、「効くというエビデンスがない」(効くかどうかはわからない)ことと「効かないというエビデンスがある」ことが違うと理解している、この読者の方が科学的で大人だと俺は思ったね。
寛容な態度か?
鹿野氏は、本人が言うように、権威的にならないようにしていた(p. 625)だろうか。友人の書くように「間違った理解であってもそのことに苦しんでいる人達への優しい眼差しが生じていた」(p. 645)だろうか。
俺は違うと思う。彼の文体は読みやすくておちゃらけているけど、自分と反対の意見を持つ人々に対する嫌味が見え隠れしていた。
例えば福島原発事故を受けて書いた記事の題名が「ほうしゃのうこわいよね」(p. 460)だ。なぜ全部ひらがななのだろう。これは放射能を怖がる人々を子供扱いしているのではないかな。
ホメオパシーを信じている人たちを「ホメオパスでやんすの人」(p. 444)と書いているのは、明らかにバカにしているよね。
これは『オールザットウルトラ科学』なので若い頃に書いたものなんだけど、こんなのもある。
マイコン少年は、暗い。と、以前書いたら「ばーろー、おれはくらかあねえや」というようなお便りを何通かもらいました。そうですか。そいつはよかった。だけど、やっぱりマイコン少年は暗いと思う。あなたは例外かもしれないけれどね。(p. 92)
明らかに喧嘩を売ってるよね。
ここで重要なのは、本人が権威的にならないようにしているのに、このような挑発的、上から目線な態度を取ってしまっていたということだ。このような態度を取らないためには、自分で気をつけるだけでは不十分なのかもしれない。
まとめ
鹿野司は、右でも左でも体制でも反体制でもないが、その代わりに科学を判断の拠り所にしていた。そのことによって、右や左といったイデオロギーから自由でいられた。それが彼の強みだった。
科学は常に正しいものであり、人類を幸せに導くものだと考えていた。今ある問題は科学で解決すると思っていた。
しかし科学を唯一の価値体系にした結果、温暖化や原発といった科学技術が引き起こす問題は矮小化してしまった。科学は、最良の羅針盤ではあっても、唯一の地図ではない。鹿野氏は地図としての科学を信じ抜いた人物であり、それが彼の限界でもあった。
とはいえ、『サはサイエンスのサ』『オールザットウルトラ科学』はその辺のベストセラー本より面白い本なので、是非読んで欲しいのねん。

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