『魔女の宅急便』読解

2026/05/20

批評

〔約6600文字|読了の目安:13.2分〕

 宮崎駿監督の『魔女の宅急便』は、子供向け作品でありながら説明台詞が少なく、主人公キキの細かい機微があまり言葉で説明されない。
 著名な作品なので、すでにどこかで説明されていると思うが、自分なりに作品を読み解いてみる。

〈目次〉
気ままから順応へ
仲良しグループと疎外
ニシンのパイ
喋らなくなるジジと恋人
母親代わりのおソノさん
自然と機械
ご都合主義
原作との違い
小ネタ

気ままから順応へ

『魔女の宅急便』は「田舎からやって来た13歳の魔女のキキが、苦労しながら都会に馴染む成長物語」だ。それは「当初はキキが気ままに振る舞い失敗し、町に順応するようになる」という形で描かれる。

 キキはコリコの町に着いた途端に交通違反をして事故を起こしかけ、警察に怒られる。それまで気ままに空を飛んでいたのが、ここで「自由に空を飛んではいけない」という町のルールを示される。
 キキにとって最初の挫折だ。新しい町への期待に胸を膨らませていたキキが、ここを境に調子が狂っていく。

 その前後に地面に降り立ち、その場にいる人たちに「私、魔女のキキです」と自信たっぷりに挨拶する。町では知らない人にいきなりそんな挨拶はしないから、共感性羞恥(見た方が恥ずかしくなる)を感じさせる。町の人は案の定(変な娘だ……)とよそよそしい態度を取る。
 これはキキが自分の思いを先行させ、町の人々の性質を考えなかったからだ。キキは「なぜ歓迎されないんだ?」と戸惑う。

 これらの出来事により、キキは「自分は悪くない、町の人々が悪い」と町の人々に苦手意識を覚える(その後のおソノさんとの会話での「この町の方は、魔女がお好きじゃないみたいですね」という台詞に現れている)。トンボが警察から助けてくれたのに顔も合わせない。すっかり拗ねている。

 その後、丘の上で落ち込んでいたら、おソノさん(パン屋のおかみ)がおしゃぶりを客に届けようとする場面に出くわす。キキは町の人々に苦手意識を持っているのに、ここでは手助けをする。
 これはキキの本質的な優しさだとも解釈できるが、話の流れからして、自分の能力で町の人々の役に立てる、それが町に受け入れてもらえることに繋がると直感した、と解釈する方が説得力があるだろう。
 その結果、おソノさんから好意を得られる。これはキキが自分の思いを優先させるのではなく、町の役に立つ行動を取った、つまり順応したからだ。そうして宅急便の仕事に繋がる。

 つまり自分の好き勝手に振る舞うのではなく、社会に貢献することで社会の一部となる。それが大人になることだといっているわけだ。

 この映画のクライマックスは、風で飛ばされた飛行船から友人のトンボを救うため、キキがスランプを克服してまた飛べるようになる場面だ。ここだけを見ると「己に打ち勝つこと」がテーマのように見える。
 だがこれは、映画のラストを盛り上げるために仕方なくアクションシーンにしたのだと思われる。表面的には「己に打ち勝つこと」を描いているが、命がけで友達のトンボのために行動することでキキは町の人々に受け入れられた。アクションシーンの裏で、それまで描いてきた「町への順応」というテーマが完了したのだ。

仲良しグループと疎外

 キキが町の人々と馴染めない描写では、「仲良しグループと疎外された人」という構図が貫かれている。

 キキは、故郷では出発時に応援してくれる友達がいた。だがコリコの町に来て、友達は0人になる。
 魔女は珍しいから町で歓迎してくれるとキキは思っていただろうが、町の人々は歓迎してくれないし、警察には怒られる。これにより友達0人のキキは完全に孤立する。

 そのタイミングでトンボが絡んできたため、キキは「こいつも無礼な町の人間だ」と嫌う。馴れ馴れしく、都会的で、自転車(機械)を乗り回す少年は、都会であるコリコの町の象徴に見えたのだろう。

 そこに車でやって来るトンボの友達たちが仲良しグループだ。こいつらはうるさいし、「ナンパかー?」と揶揄し、そいつら自体がナンパに描かれている。彼らは自足しており、キキを見ていない。
 キキのように孤立した人間がそういった仲良しグループを見ると、自分が疎外されていることをさらに感じさせられるため、敵意を感じる。「奴らはちゃらい仲良しグループで固まっている。自分はそこには入りたくない(本音では入りたい)」と自分に嘘をつく(心理学でいう防衛機制の中の反動形成)。それがさらに孤立感を深める。

 そして町中ではしゃぐ少女たちとすれ違う場面。
 少女たちはキキをまったく意識しておらず、喋りながらすれ違うだけ。だがキキはムッとする。彼女たちは仲良しグループで、おしゃれで、青春を謳歌している(ように見える)。だがキキは一人ぼっちで、黒いダサい服。だからキキは「自分が疎外されている」と敵意を感じる。

 キキはトンボの自転車に乗せてもらってトンボと親しくなるが、トンボの友達たちが現れるとまた避けるようになる。これは「親しいと思ったトンボは結局、あちら側の人間だ」という疎外感を感じたからだ。

 彼らはキキに悪意は向けていない。それでもキキは「自分はのけ者だ」という疎外感を感じる。
 仲良しグループは、意図的に誰かを疎外しようとは思っていない。だが存在するだけで他者に疎外を生む“加害性”がある。仲良しグループの中にいる者はそれに気づかない。そういう鋭い集団心理が描かれている。

 キキが空を飛べなくなって疎外感が高まったとき、寄り添ってくれるのはウルスラ(絵描きの女性)だ。ウルスラは町の外れの小屋に一人で住み、仲良しグループに所属していない。一人の人間同士だからお互いに傷つけず、癒やせた。

ニシンのパイ

 この映画においてニシンのパイは論争の種だ。孫が悪い、いや「いらない」といわれてるのに贈る老婦人が悪い、という意見がネットでは定番のようだが、どちらが悪いというのは物語の本質からはズレていると思う。

 パイを届けるとき、それまで笑顔だったキキが、孫の態度を見てから落ち込む。その後も落ち込んだまま家に帰り、パーティはキャンセルした。孫の態度に深く失望したことが伺える。

 なぜ失望したのか。それは、あれだけ苦労して焼いて届けたニシンのパイが相手に喜ばれない、善意が喜ばれるとは限らないという現実を突きつけられたからだ。
 キキにとって宅急便は単に荷物を運ぶだけではなく、町の人々に感謝されることで自分の居場所を作るためのものだった。その前提が崩壊したのだ。その結果、自分の存在価値も脅かされることになり、高熱で寝込んだ。

 その後、高熱から冷めたキキは海岸でのトンボとの会話で「あたしのは仕事だもん。楽しいことばかりじゃないわ」と言い、そのことを理解している様子を見せる。

喋らなくなるジジと恋人

 キキがジジの言葉を理解できなくなる展開は意味ありげだが、どういう意味だろうか。
 たまたまスランプだった、老婦人の孫に冷たく当たられたから、風邪を引いたから、直前にトンボと仲違いしたから、などが考えられるが、ジジが恋人を作ったのも原因ではないだろうか。

 それまでジジは孤立したキキに寄り添う、唯一の理解者だった。だが恋人を作ったことで町の側に行ってしまった。
 恋人を作ってからのジジは、言葉が通じないだけでなく、動作も普通の猫になる。キキの従者という役割を捨て、猫としての人生を選んだように見える。
 キキが町に馴染むのに苦労しているのに、ジジはキキを置いて先に町に順応してしまった。これによりキキはさらに孤立する。

 最後、飛行船からトンボを助けたキキの元にジジがやって来るが、「ニャーン」としか鳴かない。キキがまた空を飛べたのに、言葉が通じないままだ。
 これは情報不足なため想像になるが、それまでのジジはキキとしか会話しない、つまりキキが自己の内面と対話しているようなところがあった。キキのやることに対し突っ込みを入れたり、慰めたり、代弁したりと、キキの内面に存在する他者、イマジナリーフレンドのようなところがあった。
 キキが外の社会に目を向けるためには、内面の声のようなジジとは別れる必要があった。ウルスラと心の底から対話したのは、ジジと話せなくなった後だ。そして社会で自立できたキキに、もうジジは不要ということなのかもしれない。

 ちなみに原作(『魔女の宅急便』角野栄子/福音館書店)にも、「女の子と黒猫はふたりだけのおしゃべりができる」「分かちあえる者」「女の子も成長し(……)結婚ということになると、黒猫も自分のあいてを見つけて、わかれて暮らす」(p. 11)と、イマジナリーフレンドらしさがある。
 しかし映画版のジジは一足先に相手を見つけてしまい、キキと別れた。それはキキを突き放すことになったが、結果的にキキの自立を促した。

母親代わりのおソノさん

 おソノさんは原作では最初に出産するが、映画では最後になっている。おソノさんが子供を産むと子供にかかりっきりになり、キキの相手ができなくなってしまう。物語中は妊娠中にすることで、キキにとって圧倒的な母性を持つ母親代わりの存在にし、最後にキキが自立したことでその役割を終え、出産したと思われる。
 エンドクレジットでは産んだ赤ちゃんを夫にまかせており、母性だけの存在ではなく自立した人間であることを示している。

 最初、おソノさんがキキにコーヒーを入れたカップを出すとき、取っ手をキキの右側に回す。おソノさんはサバサバして見えるが、パン屋では接客が丁寧(客のために扉を開ける)だ。接客のプロであり、キキにとって見本となる成熟した大人、ということだろう。

 風邪を引いたキキにおソノさんがミルク粥を用意するとき、帰っていくおソノさんにキキは「おソノさん……ううん、何でもない」と言う。この直前、おソノさんのことをじっと見つめており、おソノさんに母親の姿を重ね、甘えそうになったのを留まった(自立を選んだ)と思われる。

 おソノさんがジジのために床にミルク粥の皿を置いた後、「ふうっ」とバランスを取りながら起き上がる。細かい身重の表現だ。

自然と機械

 キキと親和性のある物の比喩として自然・魔法、
 苦手な物の比喩として機械が設定されている。

●自然・魔法
 ・キキの故郷は田舎で機械は少ない(ラジオを家族で奪い合う)
 ・キキは魔法で飛ぶ
 ・ニシンのパイの老婦人の家の電気のオーブンが動かず、キキが薪で焼く
 ・ウルスラは山小屋に住む。車を持たない
 ・キキが飛べなくなってウルスラの山小屋に行くとき、山に登って町を見下ろしただけで「すてき……」と笑顔になる
 ・キキの実家は草に覆われている。老婦人の家も草に覆われている

●機械
 ・トンボは自転車に乗る
 ・トンボの友達は車に乗る
 ・キキが暇そうに店番をしているとき、店の前でバイクに乗った少年が白いワンピースの女の子を乗せて走り去る。キキがホウキで物を運ぶのと対比になっている
 ・老婦人のいけすかない孫のパーティで、家の前に車が何台も止まっている。孫が再登場するときも車に乗っている
 ・トンボたちは飛行船に夢中。キキは興味ない
 ・飛べなくなったキキの前を飛んでいく飛行船
 ・何度もテレビが映る
 ・都会の象徴

 キキは後半でトンボの自転車に乗り楽しむ。ここでキキが苦手な機械に歩み寄る。
 最後は飛ばされた飛行船からトンボを救い、機械との対立を克服する。ここで自分のホウキではなくデッキブラシを使うのは、自分の魔法には固執せず、町の一部となるということだ。
 キキは自分とは異質なもの(機械・町の文化)を受け入れ、順応したわけだ。

ご都合主義

 この作品にもご都合主義的なところはある。最後に飛行船が風で飛ばされるという事故が起き、キキがトンボを助け、町の英雄になるところだ。

 それまでキキは町に馴染めず、スランプに陥っていた。そのままでは自立は見込めない。そんなとき、キキだけが活躍できる事故が起きた。この事故がなければキキは自立できなかった。そんな事故が都合良く起きたのがご都合主義だ。
 キキが身の危険を呈しているので、思わずキキの成果にばかり目が行ってしまうが、そもそもがキキを英雄に仕立て上げるための舞台設定なのだ。
 そもそも落ちるトンボを片手で捕まえたら脱臼するだろう。

 ただ、これは仕方ない面も大きい。あそこまで町に馴染めなていないキキがハッピーエンドを迎えるには、あれくらいの大転換が必要だった。映画としてもアクションシーンで見栄えがする。
 それまでの人間関係をあまりにリアルに暗く描いたため、子供向けアニメ映画として終わらせるにはあれが必要だったのだ。

原作との違い

 原作が映画と異なる点は、主に以下がある。

  • キキは長髪
  • トンボは自転車に乗ってないし、ナンパに絡んでこない。キキのホウキを盗む
  • トンボの飛行クラブは飛行機の研究ではなく、魔法で飛ぶ研究をしている
  • トンボの友達たちは出てこない
  • キキはパン屋を間借りするのではなく、パン屋の粉置場で店を開く
  • キキがいろんな仕事を請けることで軌道に乗る(一話完結の作り)
  • ニシンのパイの老婦人は出てこない
  • ジジの恋人(リリー)は出てこない
  • ジジは言葉を失わない
  • キキが飛べなくなることはない
  • 飛行船は出てこない

 原作ではキキが町に馴染めないのは最初だけで、順調に町に馴染む。飛べなくなるというスランプはないし、飛行船の大事故も起きない。温かくて緩やかな世界が描かれる。
 映画ではそこにリアルな人間関係を持ち込み、キキはとことん落ち込む。2時間映画にふさわしいダイナミックなアクションシーンも用意されている。見事に児童文学を劇映画に作り替えたといえる。

小ネタ

  • コリコの町を見つけたときの会話。ジジ「もう他の魔女がいるかもしれないよ」 キキ「いないかもしれないわ」。斜に構えたジジと楽観的なキキの対比だが、ジジと同じ理屈によって正反対の結論が出せることを示すことで、ジジの理屈は無意味だと証明している。
  • キキがおソノさんと出会ったとき、おソノさんはインスタントコーヒーを入れる。時代に合ってない気がするが、インスタントコーヒーは1901年に発明され、1938年にネスレ社が発売している。
  • キキが人目を忍んでトイレに行くのは、等身大の女の子を描きたいという思いがあったかららしい。ポスターの初期案ではキキが便座に座っているものもあった(『スタジオジブリ作品関連資料集Ⅲ』p. 47)
  • キキが買い物をした帰りにトンボたちが車で絡んでくるが、車が止まったときにナンバープレートが道路に落ちる。この車は、よく見るとかなりのボロ車だ。
  • 老婦人の家に「ポンパドゥール夫人」(ルイ15世の愛人)の絵画が飾ってある。
  • エンドクレジットで、音楽演出が高畑勲になっている。

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