根拠を書こう

2017/04/10

論理

〔約3000文字|読了の目安:6分〕

 意見を述べるときにまずするべきことでありながら、あまり守られていないのは、根拠(理由)を用意することだ。

根拠を言わない人

 根拠を示さない意見とは、例えばこのようなものだ。

◎会話1
A「雨が小降りになったから、そのうち晴れるかもね」
B「いや、晴れないよ」

 このBの発言は意見としてほとんど意味を成さない。なぜならそれが正しいかどうか他者には判断がつかないからで、判断がつかないのは根拠がないからだ。

◎会話2
A「雨が小降りになったから、そのうち晴れるかもね」
B「いや、天気予報では明日も雨だから、晴れないよ」

 このBの意見には説得力がある。天気予報という根拠を示しているからだ。

 意見を述べるとき、相手は自分と同じようには考えていないのだから(同じように考えているなら、そもそも意見を伝える必要がない)、「私はこう思う」とだけ言ったところで「そうですか、こちらはそう思いません」と言われて会話は終わりだ。
 根拠を示さない意見が誰かに同意されたとしても、それはたまたま同じ意見だっただけだ。

 意見を述べる際に「~だから、私はこう思う」と言うことで、自分がそう思う理由を伝えられる。この「~だから」の部分が強いほど、説得力のある意見になる。

理由を書かずに理解を求める看板

根拠=知見・推論

 自分が正しいと思っている意見でも、根拠がなければ、他人からすれば何の説得力もない。
 自分だけが正しいと思っている意見は、主観だけで正しいと思っている意見だ。人は、持っている知見も推論の仕方も違う。主観によって物事の捉え方は異なる。
 同じ知見を共有し、正しい推論を行えば、多くの場合はおのずと同じ結論になる筈だ。

 根拠を述べるということは、自分の知見と推論を相手に伝え、なぜ自分がその結論に至ったかを説明することだ。その知見と推論が正しいと認められれば、その結論が客観的に正しいことが証明される。そうすれば、自分の意見は正しいと他人に思わせられる。
 根拠とは、客観的な正しさを証明するものだ。

根拠の必要性がわかっていない人

 「調べればわかる」とか「もっと勉強しろ」と言って根拠を示さない人がいるが、それは自分の意見・知識が絶対に正しいと思っているわけで、議論する態度ではない。
 異なる意見が複数ある場合、各々が自分の意見が正しいと思っているのだから、特定の意見が正しいとは断定できない。
 だからこそ、どれが正しいかをはっきりさせるために議論をする。そのために根拠が必要になる。

 説得するつもりがないなら、最初から意見を言うべきではない。それは他人と関わる態度ではなく、ただの自己満足であり、相手を邪魔するだけだ。
 根拠のない批判は意見ではなくただの悪口であり、感情の発散だ。それは精神的な排泄物で、無用無益な社会のゴミだ。

議論の心構え

 議論とは「自分の意見も間違っているかもしれない」という前提の元に相手と意見を交換し、どちらが正しいかをはっきりさせるものだ。
 これは、自分の意見に自信を持つなということではない。現時点での自分の知見と推論においては今の自分の意見が正しいと考えられるが、新たな知見と推論が入ればその考えが変わることはあり得る、と心得ておくということだ。
 こう心得ておかなくては、他人の意見に耳を傾けられない。他人の意見を聞かない人は、自分が絶対に正しいと思っている人で、議論ができない人だ。

根拠を書かない相手は取り合わない

 ネット上には様々な意見・主張の書き込みがあるが、それが一考に値するかどうか、確認する簡単な方法がある。
 根拠が書かれているかどうかを見ればいい。

 根拠が書かれていなければ、その相手が、

  1. 意見に根拠が必要だということがわかっていない
  2. 根拠がない、書いたつもりが根拠になっていない
  3. 根拠が必要なのは知っているが、手を抜いている

 のいずれかということだ。
 1, 2 は論理力に欠けるし、3 はまともな対応が期待できない。
 いずれにしろ、まともに議論できる相手である可能性は低い。匿名の相手であればなおさら無責任な対応をするだろうから、取り合わないのが賢明だ。

根拠を省略する場合

一般常識は省略する

 根拠は必ず用意しなければいけないわけではない。
 例えば、

今日は暑いから、夕食は鍋じゃなくて、そうめんにしよう。

 これは何の問題もない文章だが、実は「鍋は熱い」「そうめんは冷たい」「暑い日は熱い物より冷たい物を食べた方が気持ちがいい」という根拠が省略されている。
 しかしそれは一般常識で、わざわざ書く必要はない。あえて書いてもいいが、労力が割かれるし、文章が冗長になって読みにくくなる。

 だから一般常識は省略していい。
 こういう同意・共通認識・暗黙の了解を「公理」といい、議論の対象から外される。

どこまでが一般常識か

 しかし、どこまでが一般常識かは、はっきりしない場合がある。
 相手が外国人だとかいう特殊な場合を除いて、一般的な成人の日本人と話す場合であれば、以下のようなことは一般常識だといえる。

●高校教育までの内容
 ただし高校にも偏差値の高い低いがあるし、文系に進んだ人は数学や物理の内容なんてほとんど覚えていないだろう。高校教育の初歩あたりだろうか。

●大新聞に何度も出てくること
 新聞を読んでいない人もいるが、何度も出るようなことであればテレビやネットなど他の場所でも目にしているだろう。

 逆にこういうことは一般常識ではない。

●ネット上の流行
 SNSなどに入り浸っている人はその世界がすべてと思い込みやすいようだが、ネットを利用していても流行に触れていない人もいる。一時的な流行語は通じない相手もいる。

●テレビに出ている芸能人など
 テレビに出てくることは誰でも知っていると思い込む人が多いが、そういうのに興味のない人もいる。

 大ざっぱにまとめると、高校生にも理解できる範囲、とすれば問題ないだろう。
 岩波新書などの新書は、読者層にそれに近い基準を想定して書かれているように思う。

それ以外に省略するもの

 それ以外に、こういったことは省略していい。

●あまり重要ではないこと
 自分の意見を直接支える根拠・論拠ではないもの。

●簡単に調べられること
 今ならネットで検索できるので、説明すると冗長になってしまうもの、一部の人だけが知らないだろうものは、検索してください、という姿勢もあり得る。

●専門記事における専門用語の意味
 例えば3DCGの記事を書くのに3DCGの専門用語を毎回説明していたら労力もかかるし冗長になってしまう。3DCGの記事を読むのはほとんど3DCGの知識のある人なのだから、省略していい。

 ただし意見を述べる側に説明する義務(立証責任)があるので、義務を怠ることのないようにする。

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